致 道 博 物 館
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鶴岡は、江戸時代酒井氏の城下町として栄えて来ました。最上藩(最上義光)の後継者をめぐる内部紛争を理由に最上氏(山形57万石)がお家断絶となり、徳川四天王の一人であった酒井忠次の孫忠勝が元和8年(1622年)に幕府の命により信州松代から、最上領の内庄内14万石を拝領し国替入部した。以後酒井氏は幕末まで庄内に留まる。また、酒井氏は明治以後も、鶴岡の地に留まり現在に至ったおります。 ここ致道博物館は鶴岡城(現在鶴岡公園)旧三の丸の場所にあり、旧庄内藩主酒井氏が昭和25年に旧藩校致道館資料、土地建物を寄付され財団法人致道博物館として出発しました。敷地内には庄内藩主の御隠殿(藩主の隠居所)と庭園を中心に旧西田川郡役所、田麦俣多層民家、旧鶴岡警察署移設復元され展覧会場、収蔵庫、民具の蔵等が併設されている。 |
1 | 旧西田川郡役所(重要文化財・昭和47年移築復元) | |||
明治14年(1881)に建てられた洋風建築で明治天皇の東北巡幸の際に安在所となった。 特筆すべきは、釣り好きで有名な旧藩士氏家直綱(江戸末期の文久2年と慶応3年の庄内磯で釣り上げた魚拓鯛、鱸等33枚を巻物にした。現物は酒田の本間美術館に所蔵。)が賊軍と云われた庄内藩ではあったが初代所長に抜擢されている。 館内には考古学資料および明治時代の資料が常設展示されています。 青森県亀ヶ岡の遮光器土偶が飽海郡遊佐町杉沢地区より出土された物が展示されている。縄文時代に青森県との交流があったことを示す物として貴重な資料となっている。また、県境の飽海郡遊佐町女鹿地区の三崎山からの青銅刀子の発見はたの遺物から判断して紀元前1000年頃の殷の時代の物とされている。縄文晩期の日本海側の大陸との交流があった事を示す貴重な一品である。 |
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2 | 庄内藩主御隠殿 (旧藩主の隠居所) | |||
建物の一部と庭園により出来ています。旧藩主に伝わる鎧や調度品、藩校致道館の資料及び庄内竿などが常設展示されている。 釣好きにとっては見逃せないのが、名竿上林義勝の榧風呂、勘兵衛の臥牛そして平野勘兵衛の4枚合わせの削り竿である。 殿様の魚拓でびっくりするのは第14代酒井忠宝公の石鯛尺9寸5分(明治16年)である。当地では石鯛を鷹ノ羽(通称タカノハとかタカバ)と呼んでいるのだが、60cmもの大物を延べ竿の庄内竿で上げたなんて信じられない。現在では60cmもの大型の物は聞いた事がない。ちなみに餌はあわびの短冊を用いた物だという。 |
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3 | 美術品展示会場 | ||||
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4 | 田麦俣の多層民家 (旧渋谷家 重要文化財) | ||||
![]() 延べ床面積336uと云う家屋の二階三階そして屋根裏部屋までも養蚕などの作業場や収納場として有効な利用をはかり、兜造りと云われる茅葺き屋根で作られている。雪深い山村の生活に見事に適応した三層四層に空間を求めている造りである。 江戸時代までの田麦俣は湯殿山参拝の宿舎とか参道の先達等を行い、湯殿山、月山などの登拝の強力などをする者もいたと云う。 明治以降は、三山参りの減少などで街道(旧国道112号線、旧六十里越街道)沿いの集落から、畑の耕作や山仕事、養蚕を主とした生活を行う様になった。 やがて民家の改造改築が行われるようになって寄棟屋根であったが通風、採光などの良い現在の兜作り造りといわれる均整のとれた美しい茅葺き屋根と代わって行った。 |
5 | 民具の蔵 |
古い土蔵をそのまま利用して庄内の伝統工芸品や職人の道具、民具などを常設展示しております。 | ||||
6 | 重要有形文化財収蔵庫(国指定重要有形民俗文化財) |
当館内にはバンドリ(荷を背負う時に使う布製の物)、木製酒器、大宝寺焼、仕事着、庄内浜の漁具及び船、米作りの用具などを展示している。 庄内の生活の地域特性や時代変遷などを知る上で貴重な物となっている。 |
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住 所 | 鶴岡市家中新町10-18 | |
時 間 | 9:0〜17:00 | 休館日 年末年始 |
料 金 | 大人700円、学生380円、小中学生280円 | |
問い合わせ | TEL 0235-22-1199 Fax0235-22-3531 | |
交 通 | 鶴岡駅からバス10分。 |